船のでんきやの震災と豪雨被害の経緯と現状について

皆様、あけましておめでとうございます!
本年もよろしくお願い致します。
なお新年は5日(月)から営業致します。
あれから丸2年、3年目の年始早々から
文春オンラインに「船のでんきやの震災と豪雨被害の経緯と
現状」についての記事を紹介していただきました。
以下にその記事を掲載いたしますので
読んでいただければ幸いです。
「もう店の再建は無理だ」能登の被災者を追い詰めた“地震から9ヵ月後に豪雨災害”の非情
60代男性がふりかえる“当時の絶望”と“九死に一生を得られた経緯”
船にも「電機屋さん」がある。船舶には電気設備があり、漁船は魚群探知機やGPSなども必需品だ。船の電機屋がいないと沖へは出られない。
能登半島地震では漁師が苦境に陥った。港が隆起し、荷揚げ施設も被災するなどしたため、今もまだ漁に出られない船がある。
漁の復活には船の電機屋の力が欠かせないが、こちらもシビアな現実に直面している。

港では漁師が「地盤が隆起して船を動かせない」と・・・
いきなり地震が起きた。県職員の息子はすぐに職場へ向かおうと玄関へ急ぐ。
その時、さらに激しい揺れに襲われた。息子がバーンと倒れて、妻も倒れる。
沖崎俊彦さん(63)は重なるようにして倒れ込んだ。
2024年1月1日午後4時10分、石川県輪島市。市内では震度7を観測する地区もあった激震だった。
玄関から外に出ると、目の前に建っていた2階建て倉庫がぺチャンコになっていた。
沖崎さんの軽トラックと息子の乗用車が下敷きになり、かろうじて妻の乗用車だけ助かった。

自宅は海岸から1.5kmほどの鳳至(ふげし)川沿いにある。
大津波警報が出たので3人で高台へ逃げた。
夜、朝市通りの方が炎で赤く染まっていたが見に行くこともできず、3人は1台だけ助かった車で朝を待った。
翌日、輪島港へ向かった。沖崎さんは港に面した輪島崎町の生まれだ。
隣の海士(あま)町と共に約200隻の漁船を擁する石川県随一の漁師町である。
亡父の代から船の電機屋「日東電機」を営んでいて、3階建ての実家兼店舗が港の目の前にあった。
母親は高齡者施設に入っていて誰もいなかったが、シャッターが曲がり、ガラスは割れていて、地面も起伏していた。
後に鉄骨がゆがんでいたと分かる。
港では漁師が「地盤が隆起して船を動かせない」と話していた。
海底が1.5mほど隆起して上がり、船の腹が底に着いていた。

ポータブル電源で自宅に寝泊まり
次の日、妻の実家へ救出に向かった。
義母が輪島市の山間部で独り暮らしをしていて、元日は金沢から妻の妹の一家4人が帰省していた。
だが、道路が寸断されて身動きが取れなくなっていた。
妻の友人から「田んぼの畦あぜ道のような場所なら通れる」と聞き、道なき道をたどる。
ようやく到着した妻の実家では母屋が潰れていた。
2007年3月に起きた前回の能登半島地震で新しくしたリビングはかろうじて倒壊を免れ、5人はたまたまそこにいて助かったのだという。
沖崎さんはこの日、輪島を脱出した。
停電や断水は解消される見込みがない。息子が金沢市の隣町でアパートを借りていたので、妻と息子の3人で10時間以上かけて向かった。
ゆっくり避難を続けることはできなかった。妻が輪島の幼稚園で働いていたからだ。
輪島の自宅へ戻り、ポータブル電源などで自宅に寝泊まりした。
1月末には高齡者施設に入っていた実母が亡くなった。
葬儀はできず、金沢に運んで荼毘だびに付した。「いろんなことが立て続けに起こりました」と沖崎さんは話す。
被災当初の事業者を追い詰めた“20年縛り”の壁
沖崎さんは店舗の再建を考えた。
「4000~5000万円かかると見込まれました。
市役所に相談すると、当時の制度で補助を受けるには20年間同じ場所で事業を続ける必要があり、売却も譲渡もしてはならないと言われました。
『20年後は80歳かぁ、後継者もいないのに無理だな』と思いました」と沖崎さんは話す。
漁師が海に出られなくなっていたので、発災から半年間は仕事がなかった。
店の再建は無理、仕事もない。「心が折れかけましたが、根が楽天的なので、なんとかなると思いました」。
生計を助けたのは、船ではなく家の電機屋としての仕事だった。
大学へ進学した沖崎さんが輪島に戻ったのは1988年だ。
父親の事業を継ぐべく、魚群探知機を造る会社で3年間修業して帰郷した。
漁船にそうした機器の導入が進んでいた頃で忙しかった。従業員も4人いた。
しかし、海洋環境の変化や資源減少などの影響を受けて、漁業は厳しくなっていく。漁師も減り始めた。
冬、輪島の海は荒れる。なかなか漁に出られなくなり、船はメンテナンスの時期になる。
ところが、船が頑丈になり、機器の性能も上がって、メンテナンスの仕事が減った。
「どうしようかな」と考えていた時にひらめいた。約20年前のことだ。
窮地を救ったマリンランプ事業
店を手伝っていた妻に「船の作業灯は家につけられないの?」と尋ねられたのだ。
電圧が違うが電球を変えればいい。インテリアに興味があった沖崎さんは即座に反応した。
無骨で風雨に強い船舶用照明器具を玄関などに取り付けられないかと研究した。
店を訪れたメーカーの社長も賛同し、マリンランプと名づけて売り出した。
だが、地元での評判はいま一つだった。
漁師に話すと、「俺の新しいうちに船で腐った電灯をつけるのか」と怒られた。
新品を使っても漁師にはそう見えてしまうのだ。
そこで、北陸地方の設計士にダイレクトメールを送り、ホームページを自作して宣伝した。
かなりの反響があった。
素材の真鍮が酸化してできる黒ずみも「家族と一緒にランプも成長する」と説明すると、納得する人が多かった。
大手電機メーカーが類似品を売り出すほどだった。

漁業環境はその後も悪化し、本業の従業員はゼロになった。
「一方、マリンランプが収益の5割を占めるようになり、被災後は8割になりました。
この2年間はさらに売り上げが増えています」と沖崎さんは話す。
このためマリンランプで生計を維持しながら、本業の再開を目指した。


自宅では発災から半年後に水道と電気が使えるようになった。
目の前で潰れた倉庫は解体した。港に面した実家兼店舗も解体を決めた。
替わりに自宅の倉庫跡地にコンテナを置いて事務所にしようと計画した。
そんな沖崎さんをまた災害が襲う。地震の発生から9カ月後、豪雨災害に見舞われたのだ。
「土曜日の朝でした。自宅にいると、コーン、コーンと音がします。妻が窓を開けると、目の前を流れる鳳至川があふれていました」。
コーンというのはプラスチック製プランターが流されて家に当たった音だった。
「仕事を辞めてどこかへ行きたい」
濁流の勢いが激しく、沖崎さんは「家が流される」と思った。
妻の手をしっかりと握り、既に浸水していた玄関を出て高台へ向かった。
一帯は深さ2mほど浸水してしまう。水がひくと厚さ約30cmの泥が残された。


元は田んぼだった土地だ。父親が50年ほど前に買い、整地して倉庫を建てた。
沖崎さんが家を新築したのは約30年前だ。氾濫する土地とは知らなかった。
だが、過去にも同じような水害があったと聞き、「また、浸水するかもしれない」と考えると気が滅入った。
その後は7カ月間、公民館や小学校の体育館で避難所暮らしをした。
床や壁をはがした家に戻ると虚しくなる。「仕事を辞めてどこかへ行きたい」と思うようになった。
友人の中には金沢へ転居した人もいた。
そんな時、泥の片づけに大勢のボランティアが来てくれた。
一緒に作業をするうちに元気が出た。港では「お前がおらんと困るわ」と言ってくれる漁師もいた。
沖崎さんは次第に意欲を取り戻す。
港では水深を確保するために重機が海底の岩を砕いて浚渫(しゅんせつ)を続けていた。
このため、漁船を港の外に出すことができ、少しずつ修理が進んで漁に出られるようになっていった。
沖崎さんはトレーラーハウスを事務所替わりに自宅の倉庫跡へ置き、ワゴン車に工具を積んで港へ向かい始めた。
こうして本業を再開していった。
ただ、将来が見通せない状況に変わりはない。
漁師とは運命共同体なのに、「輪島崎町で主力だった小型巻き網漁船は今もまだ出漁できていません」と話す。
能登に伝わる「やわやわと・・・」の精神
港で70代の漁師に会った。岸壁につながれたままの巻き網漁船を前に、遠い目をして海を眺めていた。
「地盤の隆起で海面が低くなったので下に桟橋を設け、水揚げはベルトコンベヤーで行われています。
刺し網漁や底引き網漁ならこれでもいいのですが、私が乗っていた巻き網漁船は一度に10tも20tも水揚げするので能力が足りません。
新しい荷さばき施設ができるのは5年後。乗組員は暮らしのために別の仕事をしていて、時間が経つほど海に戻れなくなります。
操業には19人が必要なのに、既に半数しか集まる見込みがありません」

輪島港全体でも漁獲量は被災前の4割程度に落ちていて、沖崎さんは「廃業した漁師もいます」と話す。
船の電機屋の全国組織・一般社団法人「日本船舶電装協会」に属している能登の事業者は5社。
輪島には沖崎さんを含めて2社しかいない。輪島で漁を再開しようにも、下支えする人が乏しい状況だ。
ただ、沖崎さんは「焦っても仕方ない」と達観していた。
「この2年間で生きているだけで、もうけ物だと思うようになりました。
能登には『やわやわと』という言葉があります。無理せずゆっくり焦らずに、という意味です。
焦って商売を建て直そうとしても難しい。なるようになる。
もちろんくじけるわけにはいきません」。柔和な笑顔に強い芯が見えた。

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